ギャラリーアーデルについて

ギャラリーアーデルは大阪北船場・伏見町(ふしみまち)にて、世界の美術品をリーズナブルに品揃え。豊かな生活をご提案します。
アーデル(adel)はドイツ語で「高貴な」を意味しています。
マイセン、ガレ、ドーム、バカラ、ボヘミアガラスといった時代を超えて魅了する西洋アンティーク、古典絵画・彫刻、幾千年の歴史を有する東洋古美術など、幅広い価格帯とラインナップで皆様のお越しをお待ちいたしております。
また無料鑑定、買い取りのご相談にも応じております。

交通の便の大変よい、1921年竣工の国登録有形文化財建築にございます。どうぞお気軽にお越しくださいませ。

Shop Infomation

ADDRESS 〒541-0044 大阪市中央区伏見町2-2-6 青山ビル3階(Google map
3/F, Aoyama Bldg., 2-2-6, Fushimimachi, Chuo-ku, Osaka, 541-0044, Japan
TEL 06-7650-8317
+81-6-7650-8317
E-Mail お問い合わせはこちら
URL https://www.g-adel.com/
OPEN AM 11:00 ~ PM 7:00
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Wednesday / Sunday
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Access

地下鉄御堂筋線
「淀屋橋駅」11番出口 徒歩6分
京阪本線・地下鉄堺筋線
「北浜駅」6番出口 徒歩1分

青山ビル紹介

青山ビル(旧 野田源次郎邸)
竣工:大正10年(1921) 昭和34年(1959)増築
設計:大林組 伊東恒治(増築部)
施工:大林組

大阪天満橋・北浜にて輸入食料品商・西洋レストランを経営していた野田源次郎が1919年第一次世界大戦パリ講和会議の際首席全権西園寺公望に同行し、ヨーロッパでの見聞を下に帰国後、唐物問屋(輸入品商)、洋反物商の集積する大阪船場・伏見町に1921年建造した邸宅建築。
船場地区に残る大部分の近代西洋様式建築と異なり職住一体の商店建築あるいは事務所建築ではなく、専用住宅(仕舞屋)として建てられた。同じく船場の西洋様式邸宅建築、旧岸本吉左衛門邸(1931)に対して、青山ビルはパリのアパルトマン同様ファサードが直接通りに面している。
設計施工を担当した大林組が得意とし、至近の大林組旧本店(1926)や大林義雄邸(1932 神戸御影)同様のスパニッシュ様式。構造は屈強なRC造で阪神大震災にも無傷であった。
旧幕以来の伝統的町家が大部分を占めた大阪船場の旧市街にあって半円形アーチ、テラコッタのバルコーネ、ステンドグラス等華麗な西洋歴史的様式装飾が印象的な作品。ステンドグラスは17世紀に廃れ、19世紀末ルイス・カムフォート・ティファニーが復興したオパールセントグラスを含む色彩ガラスのモザイク技法を多用している。
配膳用エレベーター(ダムウェーター)など当時最新流行の設備機能を備えていた。
一方で個室は近世以来の畳敷きであった。

1921年竣工当時の各階用途は以下の通りであった。

B1階:ダンスホール
1階:厨房・食堂・浴室・運転手控室
2階:野田源次郎の両親と子供達の部屋・書斎・仏間
3階:野田源次郎夫妻の部屋・遊戯室・従業員部屋
4階:電話交換室・洋風屋上庭園

1947年青山家が取得。GHQの将校施設を経て、1951年テナントビルへ転用。1959年旧制京都帝国大学建築設備講座元助教授伊東恒治の設計で4階・5階を増築。現在に至る。ファサードに絡まるナツヅタは西宮・甲子園の蔦の株分けに由来。
国登録有形文化財。

左:3階弊社アプローチ。
右:弊社入り口前、3階配膳用エレベーター扉。
大きな窓、スチールサッシ、絡まるナツヅタが印象的な3階弊社ギャラリー。

大阪船場・伏見町について

伏見町の唐物商の店先 「摂津名所図会」(1796)

<近世> 大阪船場伏見町の起源は豊臣秀吉が大阪城築城と新城下町大阪建設の際、旧来の城下町山城国伏見(現 京都市伏見区)より呉服商を大阪・玉造へ招聘したことに由来する。天正18年(1590)3月この地に伏見呉服町と名付け、商業の守護神として黄金の恵比寿像を下賜した。(明治40年(1907)御霊神社へ合祀)彼らは大阪城中の呉服(絹の着物)を独占的に収め、豊臣家滅亡後、徳川時代になっても大阪城中及び諸藩蔵屋敷の呉服を一手に収める特権を有していた。

秀吉の恵比寿像が合祀された淡路町の御霊神社

この呉服の素材である絹、唐巻物・反物は18世紀中期まで全て中国からの輸入(唐物)に頼っていた。天正年間(1573-92)加賀国出身の加賀屋(斎藤)九朗右衛門が豊臣家の唐産茶番御用を務め、任地に大阪伏見呉服町を賜り、加賀屋一統以外の唐物(輸入品)売買を禁止した。唐物問屋を営む者は全て加賀屋と改称し、大阪伏見呉服町へ移住したのである。この唐物問屋の特権と支配は徳川時代になっても踏襲され、鎖国によりその統制は強化された。長崎に入った中国・オランダからの輸入品は幕府直轄都市たる長崎・堺・大阪・京都・江戸の五カ所本商人によって落札されたが、これらの荷物は全て大阪伏見呉服町へ輸送、加賀屋一統が引受し、全国の唐物問屋へ流通したのである。

7人の伏見町5丁目有志によって戦後建造された高麗橋4丁目の伏見呉服町之碑(1952)

大阪・日本の経済が膨張した元禄年間(1688-1704)には大阪玉造の伏見呉服町は手狭となったため、大阪北船場の現在地へ町名と町人ごと移転となった。その際、伏見呉服町は唐物商の伏見町(現 伏見町3-4丁目)と呉服商の呉服町(現 伏見町4-5丁目)へ分割された。以降伏見町と高麗橋等周辺は唐物商が集積した。江戸時代、弊社が所在する伏見町2丁目は本天満町、伏見町1丁目は本靭町と称され豊臣時代には魚市場と魚問屋の集まる町であったが、やはり唐物商の町となった。幕末、嘉永4年(1851)頃の有力唐物問屋、五軒問屋の内、田辺屋作兵衛は本天満町、滋賀屋忠右衛門は本靭町に店を構えている。

八代将軍徳川吉宗は享保の改革によって株仲間を公認した。そこで享保6年(1721)4月加賀屋一統率いる唐物問屋数名が申し合わせ、唐巻物・反物を独占的に取り扱う者を五軒問屋、薬種並びに砂糖・荒物を取り扱う者を唐薬問屋と称し株仲間を結成した。五軒問屋は伏見町周辺に、唐薬問屋は伏見町の隣の道修町周辺に構えた。五軒問屋5名は長崎から送られた全ての唐巻物・反物を荷受けし、輪番で改役(あらためやく)を務め、移送許可証たる手板を発行し、幕府より給銀を賜った。株数はその名の通り5株、時々の伏見町周辺の有力唐物問屋間で売買された。幕府による長崎貿易独占の要である五軒問屋は御免株とされ冥加金はなかった。
長崎貿易の輸入品全てが集散した大阪は密貿易取引の中心でもあった。享保3年(1718)10月抜買(密貿易)仲間5人が召捕られ、高麗橋橋詰で3か月晒された後、野江刑場にて鼻削ぎの上所払いになったのだという。(「摂陽落穂集」)

懐徳堂旧址碑(1918)と適塾(1792ごろ)

18世紀以前は中国が、19世紀はヨーロッパが世界経済と文化の中心であったから、伏見町唐物商は富だけではなく、文化や科学技術をもたらした。
唐物商の中には輸入品の珍奇な茶道具や掛け軸などの美術品を扱う者もいた。現在も伏見町・高麗橋にはこうした江戸時代の唐物商に起源を有する店がいくつか残っている。
大阪を代表する学問所、懐徳堂と適塾は伏見町近辺に設立された。大阪豪商の寄付によって設立された町人学問所、懐徳堂は設立当初陽明学の教育・研究を行っていたが、外国の情報や文物の影響を受け、天動説や無神論、国際比較文化論など独創的な発展を遂げた。懐徳堂と交流のあった豪商の美術・書籍コレクターにして文人・本草学者であった木村蒹葭堂は晩年、伏見町で文具商を営んでいた。この「文具」とはやはり江戸後期、京阪豪商や大名の間で流行していた中国やオランダ由来の高価な唐物文具であっただろう。幕末明治の志士を多数輩出した緒方洪庵の蘭学塾、適塾に至っては福沢諭吉の回想によれば「支那流は一切打ち払い」といった学風で、徒歩10分圏内の伏見町や道修町に入ったオランダの文物が必要条件であった。 文学の舞台としては近松門左衛門の人形浄瑠璃・上方歌舞伎で「女殺油地獄」(1721)には本天満町(現 伏見町2丁目)油問屋のドラ息子で殺人者の河内屋与兵衛とあるが、題材が題材だけあってか記念碑などは無い。

<幕末-近現代>
ペリー来航と日本開国により伏見町の唐物商仲間は無力となった。旧来の五軒問屋に代わる唐物商、貿易商もまた幕末伏見町に多く現れた。
近代に入っても伏見町周辺は洋反物商や貿易商が集積していた。以下に例を記す。

青山ビル(1921)と並び伏見町で印象深い近代建築の芝川ビル(1927)の場所には、かつて幕末唐物商、百足屋(芝川)又兵衛の店舗兼住宅(町家)があった。
嘉永5年(1852)唐小間物商(輸入雑貨商)として創業。幕末の神戸開港で旧来の唐物商仲間が無力になったのに乗じ大阪神戸両所本商人総代を称して奥縞、羅紗、覆輪等の唐反物を輸入し巨万の富を得た。洋銀両替商も営み、現在は不動産業、飛行機リース業。

布屋(山口)吉郎兵衛は初代が伏見町にて奉公後独立、唐反物商となる。二代目吉郎兵衛は百足屋同様、安政3年(1856)から長崎で外国商人と直接取引を行ない関東へ事業拡大するも、尊皇攘夷派による脅迫により、文久3年(1863)に輸入業を廃業、銀行業へ転身した。昭和8年(1933)山口銀行は三十四銀行・鴻池銀行と合併、三和銀行となった。三和銀行からUFJホールディングスに至るまで戦後永らく伏見町に本店が所在したが、2000年代の金融再編により現在は三菱UFJ銀行大阪営業部(西日本本部)。

山中商会高麗橋本社 近代大阪商家と中国北部四合院建築の折衷様式

美術関連で世界的に著名なのが、山中商会である。創業当初は日本製の美術工芸品や骨董品をアメリカへ輸出していた。1912年ラストエンペラー溥儀の摂政、恭賢親王溥偉の莫大な財宝と宮殿(恭王府)を買収し、英米へ輸出したことにより世界最大の美術品商社となった。清王朝崩壊の混乱期、北京恭王府で貴紳や骨董商より買取った美術品は大阪高麗橋の本社で分類、値付けされロンドン、上海、ニューヨーク等の支店で販売された。1919年英国王ジョージ5世より英国王室御用達の称号を授与。主要な顧客にパーシヴァル・デヴィット準男爵、ジョージ・ユーモルフォポロス、ジョン・ロックフェラー、チャールズ・ラング・フリーアなど。日中戦争と第二次世界大戦により中国仕入れは難化、英米資産は敵産没収となった。

旧日商岩井本社(現 トレードピア淀屋橋)

豊臣秀吉の特権的な唐物商で、徳川時代には伏見町五軒問屋の祖ともなった加賀屋一統からは岩井商店が出た。初代加賀屋(岩井)文助は嘉永6年(1853)に丹波より大阪浄覚寺町の唐物問屋、加賀屋徳兵衛で奉公後独立。娘婿の二代目が近代商社へ業容を拡大した。日商岩井を経て現在は総合商社双日。

岩井商店を除く伏見町の伝統的な唐物商は、三井・三菱の財閥商社部門、伊藤忠などの船場本町周辺の太物問屋(木綿・麻問屋)に近代化で後れを取った。谷崎潤一郎「春琴抄」や船場言葉に代表される職住一体の商家が育んだ伝統的な町人文化も過去の物となった。
しかし伏見町には今日も近世船場豪商が設立した大企業の本社や拠点、町家や神社、近代建築などの歴史的建造物が多く残る。

羅紗・毛氈などを取り扱っていた伏見町唐物問屋の遺構、旧小西平兵衛邸(現 銭高組伏見高徳寮)(1880-88)

<参考図書>
宮本又次「船場 風土記大阪」ミネルヴァ書房(1964)
宮本又次「大阪商人」講談社(2010)
香村菊雄「定本 船場ものがたり」創元社(1986)
宮川康子「自由学問都市大坂 懐徳堂と日本的理性の誕生」講談社(2002)
高橋洋二「大阪・兵庫の骨董屋さん」平凡社(1993)